■私がソーシャル・ワークを選んだ理由■

「なぜソーシャル・ワークなのか?」 


大学院入学当初、教授たちから必ずされる質問でした。

自分の心を知りたい。人の心を知りたい。--それが 私の出発点です。大学では心理学を専攻していました。理論漬けになっていくうちに、「実際に人を助けるためにはどうしたらいいのか?」という疑問が湧いてきました。
人や社会の幸せ(wellbeing、welfare)を追求するためには、一分野だけの知識では無理があるのではないか?と思い始めたのです。

日本で言う「社会福祉」とアメリカで言う「ソーシャル・ワーク」とは、ニュアンスが少し違います。私の解釈ですが、「社会福祉」と言ってしまうと、「福祉政策」や「法律」といったように限定してしまう気がします。ソーシャル・ワークは、いろいろな分野の知識を借りて、それを実践に応用する分野です。心理学も社会学も、医学も老人学も、犯罪学、経済学も政治学も、法律も・・・数え上げればきりがありませんが、人や社会に関わる全ての知識の集大成です。だからあえて、私は「社会福祉」という言葉を使わず、いつも「ソーシャル・ワーク」と言うようにしています。


私の関心は実践(=困っている人を直接助ける)に向いていると気付き、諸分野の知識を応用して実践に生かすソーシャル・ワークが私の進む道だ・・・と感じたのが学部時代でした。それが、「なぜソーシャル・ワークでなければならないのか?」という問いに対する私の答えです。

ソーシャル・ワークと一言で言っても、カウンセリングをしたり社会福祉サービスのエージェンシーで働く臨床ソーシャル・ワークから、州・連邦政府で行政や立法などに携わるマクロなソーシャル・ワークまでさまざまです。それに臨床とマクロは切っても切り離すことができません。臨床の分野で働いていても、政策に左右されない日はありません。政策は確実に臨床の現場に影響します。州レベルでも連邦政府レベルでもそうですが、立法の過程には多くのソーシャル・ワーカーが携わっています。政策によって、人や社会全体の幸せが左右されます。

ソーシャル・ワーカーも然りです。臨床だけではクライエントを幸せにすることはできません。人は人間関係、社会の中で生きているので、その人自身を診ると共に、その人が暮らしている環境も視野にいれなければならないのです。ソーシャル・ワークは、人にも環境にも同時に働きかけることができます。臨床を専門とするソーシャル・ワーカー、地域で活躍するソーシャル・ワーカー、立法に携わるソーシャル・ワーカー。ソーシャル・ワーカーという同じタイトルを持った専門家が、さまざまなレベルで人・社会のwellbeing(幸せ)を追求しているのです。そんなことからソーシャル・ワークはperson-in-environment professionとたびたび呼ばれます。

私のインターン先を例に取って説明しましょう。そのフォスター・ケア・エージェンシーは、児童保護局から照会(referral)されてきた被虐待児を里親(時として、養子)に入れることをしていました。児童保護局はテキサス州の法律・プロトコールに従って被虐待児を保護し、子どもに一番利益がある方法をとります。一時的に親から子どもを離す場合、親権を絶って養子に出すなど、さまざまな選択肢があります。そして、フォスター・ケア・エージェンシーで働くワーカー達は、州が定める里親制度の法律に従ってサービスを提供しなければ、州から財政的援助を受けることができません。テキサス州の場合は、「里親斡旋エージェンシーに対する最低基準(Minimum Standard for Child-Placing Agencies)」というのがそれに当たり、それにそった実務を行わなければなりません。


また、専門家間をつなぐ役割をするのもソーシャル・ワークだといえます。例えば、アメリカの児童保護局(1)社会福祉サービス(social service)、 (2)法的サービス(legal)、 (3)法力の施行(law enforcement)の三つが連携していて成り立っています。これらのネットワークは、児童虐待の早期発見につながります。児童虐待へは、ソーシャル・ワーカーと共に警察も介入します。機能不全の家庭を支える(family preservation/reunification)サービスが整っており、また親子の引き離しが必要な場合は里親、養子制度の手続きもスムーズに行われます。日本のニュースでは「虐待死」のニュースを多く見かけます。日本では上記のようなネットワークがしっかりしていないので、虐待を早期に食い止めることができず、死に至るまで介入することができないのだと思います。児童相談所が単独で成り立っている機関だとすれば、それも理解できなくありません。アメリカの児童保護局は公的機関で、上記のようなネットワークが確立しています。虐待の疑いがある場合通報するのは「市民の義務」とされており、児童虐待に対する人々の認識も高いのでしょう。もちろん通報した虐待のケースがが事実でないこともありますが、実際に行われている虐待を早期発見に役立っていると思います。社会自体が「虐待」に問題意識を持つこと、それと児童相談所が他の機関(警察、社会福祉サービス、弁護士・・・等)と提携・協力していくことが重要です。ただ単に通報→調査→介入だけしていても、その後の受け入れ先(家庭支援、里親・養子制度など)がないのならば、被虐待児を元の家族に戻すしか選択肢はなく問題は解決しません。とはいえ、育児支援や被虐待児へのグループカウンセリングも日本ではまだ浸透していないのが現実でしょう。

日本には、社会福祉サービスやメンタル・ヘルス・サービスが少ないと思います。「人に助けを求める」ということに対して、社会自体がまだ慣れていないのでしょうか。特にメンタル・ヘルスの問題に関しては、いまだに偏見があります。全体の和を重んじるため、個人のニーズは後回しにされる傾向があります。家族の問題だからと、他が介入できないのもそうです。そういった認識も変えていかないと、いくら法律ができ、社会福祉サービスが増えても、最大限に有効利用できません。でもどうすれば人々の認識を高められるの?というとまだまだ課題は山積みです。

ソーシャル・ワーク修士課程に入学したばかりの頃、ある人から「ソーシャル・ワークなんて、人の後始末をする職業だ。」と言われたことがあります。この一言は、私の中にいまだ残り続けています。なぜソーシャル・ワークなのか?本当に後始末をするだけの職業なのか?人、そして社会を幸せにする手助けをすることが「後始末」なわけがない・・・。困っている人を助けることはきれい事なんかではなく、人間として当然のことで、それを専門とできることはなんて幸せなことなのだろう、と思うようになりました。それと同時に、ソーシャル・ワークに対する上記のような誤った考えが、社会一般の認識なのだろうかと思いました。

人生は人間同士、環境との係わり合いの中で営まれます。環境なくして人はないし、その逆も然りです。問題を見つけ、介入し、改善・向上させるためには、さまざまな分野の専門家の連携・協力が必須です。それゆえに、私はソーシャル・ワーカー同士、諸専門家間のネットワークが重要だと考えています。そして、その軸のような役割を果たすことができるのは、人にも環境にも同時に働きかけるソーシャル・ワーク、そしてソーシャル・ワーカーなのです。